植芝盛平翁は1883(明治16)年12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市上の山)に生まれました。小さいころは、身体が弱く、気の弱い少年でした。しかし、盛平翁は大変物覚えがよく、7歳ごろには近所のお坊さんに「四書五経」を習うほどでした。小学校に入ってから、父親のすすめもあり、相撲や水泳をして身体をきたえました。そして、小学校の先生に田辺出身の名力士「千田川」の話を聞かせてもらい、その生きざまに感銘を受け、心も体も強い少年に育ちました。中学校に入った盛平翁は、1年で中退し、自分の望んでいたそろばん塾に通いはじめました。そして1年あまりでそろばん塾の先生の代わりをつとめるほどになり、そのそろばんの力量をかわれて税務署に勤めました。盛平翁は、18歳で税務署を辞め、東京に出て「植芝商会」という文房具店を開きました。仕入から販売まで手掛け、品物を荷車に積んで、一生懸命に商売に励みました。そして盛平翁は、商売を続けながら身体を鍛えることも忘れませんでした。仕事のない日や仕事の終わった時間を見つけては、古流柔術や剣術などを学びました。朝から夕方まで働いて夜は道場通いという生活が続いたので、無理がたたり、体調を崩してしまいました。盛平翁は、病気を治すため、文房具店「植芝商会」を店員たちに譲って田辺に帰ってきました。田辺に帰った盛平翁は、幼馴染のはつという女性と結婚しました。結婚した翌年、盛平翁は徴兵検査に合格し、軍隊に入ることになりました。兵隊訓練の中で銃剣術では特にすぐれ、「兵隊の神様」と呼ばれるようになり、わずか3年間で軍曹にまで昇進しました。入隊中も盛平翁は、柳生流柔術師範中井正勝の道場に通い、修行を怠りませんでした。入隊後4年して除隊した盛平翁は、開拓移民として北海道へ渡り、和歌山県54戸の移住隊長を務めました。北海道では紋別郡上湧別村(白滝)に入植し、ハッカの栽培や酪農に精を出し、のちに「白滝王」と呼ばれるようになりました。盛平翁は、仕事で紋別郡遠軽に行ったとき、大東流柔術師範の武田惣角と巡り合い、武道家同士気持ちが通じて関節技や当身などの稽古をつけてもらいました。北海道へ来ての8年間で盛平翁は、上湧別村(白滝)の村会議員にもなり、忙しい日々を送っていました。そんなある日「チチキトク」の電報が届き、急いで田辺に帰ることになりました。
田辺へ帰る途中、京都の綾部に病気回復を祈願してくれるところがあると聞いた盛平翁は、田辺へ帰る前に京都の綾部(現在の綾部市)に立ち寄ることにしました。そこで、宗教家の出口王仁三郎が盛平翁の願いを聞いてくれましたが、病気回復の祈願をするのではなく、人間の生きる道について説いてくれたのです。盛平翁は、その説法を受けて今までの不安な気持ちが変わりました。急いで田辺へ帰りましたが、父はすでに亡くなっていました。父が亡くなって落ち込んだ盛平翁は、田辺を離れて京都府綾部に移り住み、そこで、心の修養に取り組みました。1920(大正9)年、盛平翁は、京都府綾部に念願の道場「植芝塾」を開設し武術の指導を始めます。1921(大正10)年には後の二代道主となる𠮷祥丸が誕生。このころ武術の裏付けとなる手がかりとして「言霊」の研究に没頭。次第に気・心・体一如の境地を志し始め1922(大正11)年には正式に「合気武術」と呼称。その3年後盛平翁41歳「戦わずして勝つ」の理の境地に至り「合気の道」を主唱します。ある時、植芝塾の噂を聞き付けた一人の海軍将校が、木刀を持って勝負を挑んできました。盛平翁は、素手で海軍将校に「いつでも打ち込んできなさい」と言って身構えました。海軍将校は、風を起こす鋭さで木刀を打ち下ろしましたが、盛平翁はなんなく身をかわしました。さらに、何度も打ち込んでいきましたが、その度にするりとかわされるので、最後には息も絶え絶えになり、その場に倒れこんでしまいました。その後、盛平翁は、合気武術の指導に専念し、その神技を広く世間に広めました。そんなある日、講道館柔道の祖・嘉納治五郎氏が盛平翁の演武を見学し、「これこそが真の武道だ」と賞賛を与えました。
1942(昭和17)年にはじめて正式に「合気道」と名乗ることになりました。盛平翁は、合気道を推し進め、立派なものにするよう努力しました。その後、盛平翁は、武農一如の理想に基づき、茨城県岩間町に、修練場と合気神社を合わせ持つ「合気苑」を建設し、合気道の真髄をきわめ続けました。終戦後、この岩間町に入門者が集まり、合気道の新しい拠点になりましたが、息子の𠮷祥丸らの若手の武道家たちは、再び東京での活動を望みました。盛平翁は、この動きを止めるのではなく、新しい合気道の広がりと考えて同意し、𠮷祥丸に全権を与えました。そして、この動きは、1948(昭和23)年、文部省から、「財団法人合気会」として認可され、以後どんどん広がりをみせ、現在みる合気道発展へとすすんでいきました。盛平翁は、合気道を創り、社会に貢献したことにより、1960(昭和35)年に日本政府から紫綬褒章を与えられました。その後も合気道に対する功績により、天皇陛下から勲四等旭日小綬章を授与されました。そして1969(昭和44)年4月26日盛平翁は、まさに神のもとへと昇るがごとく、天寿を全うして息を引き取りました。時に86歳でした。また、最後の叙勲として、正五位勲三等瑞宝章が贈られました。5月2日、東京での本葬をはじめ、岩間町では町葬、田辺市では市葬が行われました。盛平翁の遺骨は、田辺市高山寺に埋葬され、「合気院盛武円融大道士」の戒名を受けました。
その後、田辺市では、盛平翁の合気道碑や頌徳碑が建立され、国内のみならず、国外からも多数の合気道士が、高山寺にある墓地を訪れており、今、合気道は創始者である盛平翁の心を受け継いで、ますます発展の一途をたどっています。
神技エピソード
京都府綾部でのこと、武農一如を実践するため、神苑の道普請を手伝った盛平翁は、道に立ちふさがっていた黒松の根おこしにも神技を発揮しました。盛平翁が、一人でゆっくり黒松を押し続けると今まで7、8人の男たちが力いっぱい押してもビクともしなかった黒松がなんとゆらゆらと動き始めました。大きな黒松の根を盛平翁は一人で抜いてしまったのです。
同じく京都府綾部でのこと、盛平翁が消防隊を結成したとき、消防隊員の訓練のひとつとして、力比べを行いました。盛平翁が両足を開いて立ち、そこへ5、6歩下がった位置から隊員たちが突進して、胸に体を打ちつけるという荒技でした。隊員たちは、相撲のぶつかりげいこのように、次々に全力でぶつかっていきましたが、盛平翁は、一歩も下がることなく、全員のあたりを受け止めてしまいました。
ある時、植芝塾の噂を聞きつけた1人の海軍将校が、木刀をもって勝負を挑んできました。盛平翁は、素手で海軍将校に「いつでも打ち込んできなさい。」と言って身構えました。海軍将校は、風を起こす鋭さで木刀を打ち下ろしましたが、盛平翁はなんなく身をかわしました。さらに、何度も打ち込んでいきましたが、その度にするりとかわされるので、最後には息も絶え絶えになり、その場に倒れこんでしまいました。
盛平翁の怪力ぶりは、田辺市高山寺の道場にも残っています。それは、盛平翁が壁に人差し指を1本を押し付けただけの腕に、2人の柔道家(約150㎏)がぶら下がるというものです。ところが、盛平翁は顔色ひとつ変えず2人を腕にぶら下げてしまったのです。ちなみに盛平翁70歳の時でした。
盛平翁が、ある剣道家と相対した時のことです。剣道家4、5人に対し、盛平翁は一気に打ってきなさいと命じました。しかし、だれ一人として盛平翁に打ち込むことができませんでした。剣道家たちが言うことには、自分の構えている剣に盛平翁の身体が隠れてしまい、打って出ようにもその素早さと鋭い直観力で力がそがれてしまったそうです。
略年譜
1883(明治16)年<当歳> 植芝与六・ゆきの長男として12月14日、現在の和歌山県田辺市上の山に生まれる。
1890(明治23)年<7歳> 生家に近い真言宗地蔵寺で四書五経を習う。
1896(明治29)年<13歳> 和歌山県第二尋常中学校(現:田辺高等学校)に入学するが、一年で中退する。
1897(明治30)年<14歳> 実学を志し、珠算の講師となる。その後、田辺税務署に就職する。
1901(明治34)年<18歳> 税務署を辞し、実業家を志して、上京する。
1902(明治35)年<19歳> 「植芝商会」を設立する。起倒流柔術等、古流柔術にしたしむが体調を崩し帰郷。毎日山野で心身を鍛える。 糸川家の娘はつと結婚する。
1903(明治36)年<20歳> 大阪第四師団管下第三十七連隊に入隊する。 銃剣術で「兵隊の神様」と呼ばれる。その後、和歌山三十一連隊に配属され、日露戦争に従軍するかたわら、兵隊の余暇に武道を修行する。1906(明治39)年<23歳> 上官に陸軍予備士官学校をすすめられるも、父の反対により断念。除隊後、田辺市に帰郷。
1909(明治42)年<26歳> 政府の神社合祀令に反対し、博物学者・南方熊楠らを助け、反対運動を推進する。
1912(明治45)年<29歳> 政府募集の北海道開拓民に応募、北海道紋別郡白滝原野に五十四戸の同志を引き連れて移住。広大な土地の開拓に着手する。遠軽の久保田旅館で大東流柔術の武田惣角氏に会い、ともに修行に励む。1914(大正3)年<31歳> 上湧別村(白滝)での活躍により、「白滝王」と呼ばれる。
1917(大正6)年<34歳> 上湧別村(白滝)で大火災が発生し、開拓地はほぼ全焼するが、仲間と共に、復旧作業をはじめる。
1918(大正7)年<35歳> 紋別郡上湧別村の村会議員となる。
1919(大正8)年<36歳> 父与六危篤のため故郷に帰る。途中京都府綾部町に立寄り初めて大本教の出口王仁三郎氏に会う。
1920(大正9)年<37歳> 父与六が亡くなったのち、京都府綾部町に移住し、肉体的、精神的修行に励む。京都府綾部町本宮山麓に修行道場、植芝塾を開設する。
1922(大正11)年<39歳> 「合気武術」という呼称を天下に公表する。
1924(大正13)年<41歳> 出口王仁三郎氏と共に入蒙し辛酸をなめる。
1925(大正14)年<42歳> 武道の新境地として、「合気の道」を本格的に主唱する。この年の秋、竹下海軍大将の招きで上京し、青山御所などで講習会を開く。
1927(昭和2)年<44歳> 一家を挙げて上京し、芝白金猿町の借家を借り仮設道場とする。
1928(昭和3)年<45歳> 芝三田網町に移転し、八畳二間を抜いて仮設道場とする。
1929(昭和4)年<46歳> 芝高輪車町に移転し、八畳二間を抜いて仮設道場とする。当時は合気柔術と呼称する。海軍大学校の武道教授となる。
1930(昭和5)年<47歳> 本格的道場建設の準備として目白の下落合に移り、仮設道場を開く。この道場に講道館の嘉納師範が来訪し、盛平翁の「神技」に接する。
1931(昭和6)年<48歳> 新宿区若松町に本格的道場の皇武館を建設する。入門者が増え、活況を呈する。
1940(昭和15)年<57歳> 厚生省から寄付行為の認可により財団法人皇武会とする。この年の前後から合気武術と呼称する。茨城県岩間町(現:笠間市)に野外道場を設置する。
1942(昭和17)年<59歳> 合気武道より合気道と呼称する。大日本武徳会内に合気道部が創設される。
1943(昭和18)年<60歳> 茨城県岩間町(現:笠間市)に合気神社を建立する。
1948(昭和23)年<65歳> 財団法人皇武会を改組再編成して、財団法人合気会とする。
1950(昭和25)年<67歳> この年の頃から東京、関西の各地で武道の普及活動につとめる。
1960(昭和35)年<77歳> 日本テレビで、「合気道の王座」が製作される。合気道創始の功績をもって、日本政府より紫綬褒章をうける。(11月3日)
1961(昭和36)年<78歳> ハワイ合気会の招聘により渡米。クィーン州知事らの歓待を受けハワイ合気道会館落成記念式典出席をはじめ、各地において「神技」の模範演武を披露。
1964(昭和39)年<81歳> 夏に合気道創始の功績によって、日本政府により勲四等旭日小綬章をうける。
1966(昭和41)年<83歳> ブラジル国のカトリック教アポストリカ・オルトドシア教会大司教から同教会最高名誉称号のカトリック・アポストリカ・オルトドシア教伯爵号が贈られる。
1969(昭和44)年<86歳> 合気道を創始し、武道精神を通し、現在スポーツの発展と社会の進歩に寄与した功績をもって和歌山県田辺市名誉市民の称号を贈られる。並びに岩間町名誉町民の称号も贈られる。4月26日午前5時、逝去する。この日、正五位勲三等瑞宝章を生前の合気道創始の功績とその普及の功により日本政府より贈られる。